アートとテクノロジー。カメラの場合は? [動画撮影]
これを見て、またカメラの存在について考えさせられました。
〔1〕
カメラに限らず、言えることなのかもしれませんが
製品には、多面性がありますよね。
カメラで言うと、
⑴「使う立場のユーザーの皆さん」の立場としては、
カメラは、映像を撮る、残したい、切り取りたいシーンを記録するための装置、道具。
映像を使って何かを表現したいことを具現化するための武器。
つまり、表現したことを叶えてくれる、実現しやすい装置を求めていることになりますね。
映像表現が目的でカメラを使う。つまり、目的は、アート(芸術的)要素。と言うことになりますね。
それに対して、カメラを作る側の意識ってどうなんだろうか。と思うのです。
⑵「カメラを作る(企画、開発、設計)」している人たちの意識
これが出来る。あれも出来るようにしたい。
画質をもっとよくしたい。
これだけの色が出せるようにしたい。
技術、テクノロジーが発想の原点、主役な世界。なように思います。
特に、カメラや自動車のように、同じ機材であっても使い手次第でパフォーマンスンス、
アウトプットに違いが現れるものの場合は、冷静に⑴⑵の違いを意識しておく事が重要な気がするのです。
使い手あっての、技術。 技術が可能にする表現、芸術性。
これは、疑うまでもありません。
そうなると、「技術屋さんが芸術性を身につける。」
「表現者が技術を理解する。」
この重要性がよりクローズアップされると思うのです。
以前に本で読んだ時にハットしたのが忘れられません。〔2〕
学校教育の中で、「文系か理系か?」2択みたいなシステムになっているがそれで良いのだろうか。
この分け方そのものへの疑問と、「芸術」に対しての注目度をもっとあげておく必要があるのではないだろうか。と言う話です。
学問の特性としては、要素分解して単純化する事で真理を追求、見極める。と言うところがありますがそればかりを求めていると技術者は、テクノロジーを芸術家は、表現そのものに目が行きやすくなるのが現実だと思います。
進学の際にも、普段の学習の際にも「文系か理系か」だけではなく、もっと違った切り口での選択肢をイメージできる仕組みがあるといい気がします。
世の中が成熟していけば、行くほど芸術、アートへの要求は高まるのも確かなようです。
深くは知らないのですが、超先進国の英国の教育制度のなかでは、芸術のポジションは相当なものです。(それが花開いていた一例がジョナサン・アイブなどに見られる優秀な工業デザイナーの輩出なのではないでしょうか。)
カメラの話に戻すと、
撮影する側の皆さんは、やりた表現のために機材のテクニカルな部分を理解しようとアプローチされているのがよく見えます。
反面、技術屋さんが、映像制作側(表現者)を理解しようとする動きは、弱いように思うのです。
何もしていない。とは思いませんし、全員がそうだとは言いません。
ただ、もっと表現者を理解する。何をしたいのか。(自分たちの製品を使ってくれるのは)どんな人たちなのか。
せめて、どんな風に使ってもらえているのかを「具体的に」知っておきたいですね。
芸術性、演出性と言うもの、心理を学ぶ事が必要なのではないかと思うのです。
僕自身も偉そうな事は言えないです。
そう、自分自身に言い聞かせるために今日は書きました。
ではでは。
〔1〕Epic Skills by Australian Cinematographer TIM ROYCE (Youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=ACWcS_HdrSQ
〔2〕湊千尋(著)「芸術回帰論」(平凡社 2012年)
〔1〕
カメラに限らず、言えることなのかもしれませんが
製品には、多面性がありますよね。
カメラで言うと、
⑴「使う立場のユーザーの皆さん」の立場としては、
カメラは、映像を撮る、残したい、切り取りたいシーンを記録するための装置、道具。
映像を使って何かを表現したいことを具現化するための武器。
つまり、表現したことを叶えてくれる、実現しやすい装置を求めていることになりますね。
映像表現が目的でカメラを使う。つまり、目的は、アート(芸術的)要素。と言うことになりますね。
それに対して、カメラを作る側の意識ってどうなんだろうか。と思うのです。
⑵「カメラを作る(企画、開発、設計)」している人たちの意識
これが出来る。あれも出来るようにしたい。
画質をもっとよくしたい。
これだけの色が出せるようにしたい。
技術、テクノロジーが発想の原点、主役な世界。なように思います。
特に、カメラや自動車のように、同じ機材であっても使い手次第でパフォーマンスンス、
アウトプットに違いが現れるものの場合は、冷静に⑴⑵の違いを意識しておく事が重要な気がするのです。
使い手あっての、技術。 技術が可能にする表現、芸術性。
これは、疑うまでもありません。
そうなると、「技術屋さんが芸術性を身につける。」
「表現者が技術を理解する。」
この重要性がよりクローズアップされると思うのです。
以前に本で読んだ時にハットしたのが忘れられません。〔2〕
学校教育の中で、「文系か理系か?」2択みたいなシステムになっているがそれで良いのだろうか。
この分け方そのものへの疑問と、「芸術」に対しての注目度をもっとあげておく必要があるのではないだろうか。と言う話です。
学問の特性としては、要素分解して単純化する事で真理を追求、見極める。と言うところがありますがそればかりを求めていると技術者は、テクノロジーを芸術家は、表現そのものに目が行きやすくなるのが現実だと思います。
進学の際にも、普段の学習の際にも「文系か理系か」だけではなく、もっと違った切り口での選択肢をイメージできる仕組みがあるといい気がします。
世の中が成熟していけば、行くほど芸術、アートへの要求は高まるのも確かなようです。
深くは知らないのですが、超先進国の英国の教育制度のなかでは、芸術のポジションは相当なものです。(それが花開いていた一例がジョナサン・アイブなどに見られる優秀な工業デザイナーの輩出なのではないでしょうか。)
カメラの話に戻すと、
撮影する側の皆さんは、やりた表現のために機材のテクニカルな部分を理解しようとアプローチされているのがよく見えます。
反面、技術屋さんが、映像制作側(表現者)を理解しようとする動きは、弱いように思うのです。
何もしていない。とは思いませんし、全員がそうだとは言いません。
ただ、もっと表現者を理解する。何をしたいのか。(自分たちの製品を使ってくれるのは)どんな人たちなのか。
せめて、どんな風に使ってもらえているのかを「具体的に」知っておきたいですね。
芸術性、演出性と言うもの、心理を学ぶ事が必要なのではないかと思うのです。
僕自身も偉そうな事は言えないです。
そう、自分自身に言い聞かせるために今日は書きました。
ではでは。
〔1〕Epic Skills by Australian Cinematographer TIM ROYCE (Youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=ACWcS_HdrSQ
〔2〕湊千尋(著)「芸術回帰論」(平凡社 2012年)
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