『倜儻不羈(てきとうふき)』な生き方。。。 [よもやま話]

久しぶりに記事を書いています。

自分の考えを整理するモチベーションになるので記事にしました。
そういう動機付けでもない限り文字にすることはない。そんな弱い人間です。

以前、社内講演会の講師の方に言われたのを思い出しています。
『やっている事は、大変良い。でも、やり方がもったいない』

その時のテーマは、自己啓発。
自らのキャリアの磨き方。

僕の公私における行動を認めながらも、うまく活かしきれていないね。
という趣旨だったように思います。

先日、(カード会社から発行されている機関紙)を読んでいて目に止まった言葉が

倜儻不羈(てきとうふき)

坂本龍馬や中江兆民らの生き方がそれに当たるらしいです。
(司馬遼太郎氏は著作『この国のかたち』の中で、『倜儻不羈(てきとうふき)』という異様な四文字を土佐生まれの二人の男に冠しました。[1])

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もちろん、志の大きさも到底及ばないのは重々理解してはいるのですが、
何か自分の生き方に共通するものを感じました。

人に縛られず、志高く、自由闊達。[1]

でも、共通していないのは、評価されることを期待してしまっているところでしょうか。
偉人たちは、他人の評価を含めて、人に縛られていないのに対して、
僕は、所詮凡人。
行動そのものは、人に縛られていない。が、どう思われているか、どのような処遇で評価してもらえるかを期待してしまっているところが大きく違っているように思いました。

そもそも、『倜儻不羈(てきとうふき)』は、

『倜(てき)』は、人に縛られず
『儻(とう)』は、志が大きく
『不羈(ふき)』は、奔馬のごとく自由闊達である。

という意味が込められた熟語。
ですが、
反語として、世の中の寸法に己の身を合わせられない愚か者という皮肉も含んでいるそうです。[1]

『倜儻不羈(てきとうふき)』な生き方を自ら選んでやっているわけではないのですが、
結果、そうなってしまっているように思います。

 課題の提起から、解決まで、質、量そして猛スピードで達成してきたのですが、社内におけるミッション、部署そのものが存在しない内容ゆえに評価されることがない。
(ここ数年で部門内に2つの課を立ち上げたり、事業本部内の底上げを行ってきました)

そういう枠がないから,なかったからこそ、課題提起して解決してきているがいたのだが。存在しなかった業務ゆえにその時点での評価に繋がらない。という実情があり、処遇に繋がらない。

もう一つのポイントは自分自身にあるのもわかっています。
それを気にするか、気にしないか。

まあ、これがいわゆる人としてのスケールの差なのかもしれません。

3月末で一つの(自発提起して活動してきた)プロジェクトも一段落。
ここらで、もう一度自分なりの生き方を本気で見直すタイミングに来ているのかもしれません。

人生は、一度っきり。
自らが納得できるものにしたいですから。

ではでは。


[1]『鉄矢の幕末偉人伝』〜中江兆民(上)〜(VISA 2017.04)
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